November 4, 2007
 1960年発表の『段階』は小説から小説以降へと向かったビュトールの転回点を示す作品である.プルースト,H.ジェイムズを受け継ぐビュトールにとって,小説とは一貫した内在的話者による叙述に他ならず,したがって,小説を「すぐれて現象学的である」とする小説観が生まれる.
 こうして,それまでの小説と同様『段階』にもヴェルニエという話者が設定される.彼は自分の教えているリセの1クラスの全体を,そのクラスにいる甥エレールのために描こうとして,作品のI部では自ら一人称で語りだす.しかし,自己の視点からだけでは,叙述が不十分なものとなることを知ると,ヴェルニエはII部では甥エレールを,さらにIII部では同僚でやはりエレールの叔父に当たるアンリ・ジューレを一人称に仕立て,自らを二人称・三人称として描出する.ビュトール自身が Répertoire II のなかで「人称の転換」(déplacements de personnes)と呼ぶこのような方法によって,ヴェルニエは広大で複雑な現実を,同じ内容を3つの異なる視点から描く重層的構築物としてより立体的に表現しようとする.しかし,ここに奇妙な事が起こる.作品のII部で繰り返されるように,本来人称の転換は表面上のものであり,真の話者はヴェルニエでありつづけたはずなのに,III部の後半になると,そのヴェルニエは膨大な叙述の必要からくる疲労のため死の床に伏し,仮の話者とされていたジューレが「書いているのは私だ」と言明するのである.ヴェルニエ自身が作中で認めているように,広大な現実を描くため事実と想像が入り混じった叙述から,事実だけ,想像だけを取り出すことは不可能であり,それは話者の確定をも困難にせずにはおかない.こうして,作品の最終行で,死の床に伏したヴェルニエが発する「だれがしゃべっているのか」という問いが,まさしく作品を締め括るものとなる.話者の死は,1人の視点からの叙述がもはや広大な現実を捉ええなくなったことを示すものに他ならない.さらに,話者ヴェルニエはこの叙述のために自ら情報集めに励むいっぽう,エレールにも情報収集を頼んだであったが,そのためエレールはクラスのなかでスパイ視され,ヴェルニエと決裂する.ヴェルニエは叙述のために孤立し,愛するエレールをも失って,死の病いに倒れるのである.現実を描こうとして現実を変えてしまい,叙述自体が叙述を困難にする書くことの不可能性がヴェルニエを死に追いやるのである.
 『段階』には「内的破局」が必要だったとはビュトール自身の言であるが(French Review, 1962年10月号),それはビュトールにおける小説という形式の内的な破局であった.「その著作が語ると同時に生み出す破局.」物語を中心化する話者が死んだ今,人称という次元に留まらない複数的で可動的な形式への道が開かれたといえるだろう.
(早稲田大学大学院学生)

福田育弘「ミシェル・ビュトール『段階』における話者の死について」『フランス語フランス文学研究』No.43(19831022) p.113-114